「困ったなあ」
が校庭の花壇に水をやっていると、どこから入り込んだのか子猫がじゃれ寄って来た。
お腹をすかせているのか、人恋しいのか、ずっとの足下について来て離れない。
「お前、捨て猫? 困ったな、うちはマンションだからペット飼えないし……」
じょうろを置いて子猫を抱き上げた。
ふわふわとした感触が心地いい。ミャーミャー鳴いている様は何て愛らしいことだろう。
風がふいた。
の長い髪が風に流れて子猫の体にあたった。それで驚いたのだろう、の手から抜け出して走って行った。
「あっ」
じゃれつかれて困っていたのに、行ってしまうと追いたくなる。は子猫の後を走った。校舎の角を曲がり、樫の木の下に行く。子猫は木にもたれて座っている誰かの足にすり寄った。
は視線を移動させる。きちんと磨かれた男物の革靴、華奢な足、白いカッターシャツに包まれた細い体、そして男にしては綺麗すぎる顔。
その顔を見ては驚いた。
「桐山君!」
また、風がふいた。
Nobody Is There
桐山……。
は下の名前は知らない。桐山、というだけで通じるのだ。彼は名の通った不良だから。
のクラスには、彼の美貌と非行のギャップが良いんだよと言う女の子もいる。確かに彼は綺麗だ。その上秀才で、スポーツもできる。何をやらしても完璧な彼は不良たちの親玉というマイナス面を見てもなお、それを上回るプラス面があるから女子にモテるだろう。
しかし、は彼が苦手だった。
それはなぜかと聞かれても、答えられない。
ただ一つ言えるとしたら、は桐山が側にいるだけで背筋がゾワっとする。感覚が、この男は危険だと告げるのだ。
現に桐山の目を見てみると、どうだろう。あんなに愛らしい子猫が自分の足下をうろちょろしていて、それでも表情一つ変えないなんて、おかしい。
ポーカーフェイス? いいや、違う。
あの目は、子猫という一つの物体を見ている目だ。石ころや草を見るのと変わりない目。
戸惑ったが、は意を決して口を開いた。
「ごめんね、桐山君!」
ムリに笑顔をつくってみせる。
「この子、どこから入ってきたのか分からないけど、捨て猫なの、さっきまで私について来てて困ってたんだよね、うちマンションでペット飼えないし、で、でも、友達で飼ってくれそうな子探してみようかなっ」
自分でも何を言ってるのか分からないまま一気に喋りきり、ほっと息をついた。かなり疲れる。
そしては前かがみになり、子猫に手招きをする。適当に「こっちおいでー」などと言いながら。
すると、桐山の手が子猫にのびた。
思わずぎょっとする。何をするつもりだろう。
しかし桐山は意外にも、子猫の首元をなではじめた。子猫は気持ち良さそうにして桐山の手に身を任せている。
は安心した。もしかしたら桐山が子猫に何かするかもしれないと思った自分に少し嫌悪する。いくら桐山が不良の親玉で、自分が苦手な相手だからって、そこまで警戒することはないのだ。
「子猫というのは愛らしく思われているようだが……」
桐山がつぶやいた。愛らしく思われているようだ、などと客観的に言うのが気味悪い。
「それは他の生物の母性本能を刺激し、親の代わりに養育させるための工夫だ」
「へ、へえ。そうなんだ」
としか言いようがない。子猫の愛らしさを生物学的に述べてしまうとは。
桐山は子猫を抱き上げた。そしてを見る。
「確か、こいつを飼えないと言っていたな?」
そう聞かれて、はうなずいた。本当は何かしら言葉にして返事したかったが、彼の冷たい目に射殺されそうな感覚を覚えて、できなかった。
桐山はじっと子猫を見ていた。
なぜか、の背筋がゾクゾクと寒くなった。そして……。
めきっ。
木の枝が折れるような音がした。
さっきまで手足を動かしていた子猫が、全ての動きをストップさせる。そして、首だけがだらん、と不自然な方向に垂れた。
声が、出ない。
子猫の死骸が宙に投げ出され、落下していき、地面に落とされるまでがゆっくりとした動きで見えた。
は、崩れるようにしてその場に座り込んだ。
「これでいいだろう」
桐山がそう言って立ち上がる。そこではハッと正気に戻った。
「桐山君!」
も立ち上がる。そして彼を睨んだ。
「自分が何をやったか、分かってるの?!」
桐山は、冷ややかな視線をに送るだけだった。
恐ろしい、と思う。子猫を殺したのに、罪悪感のかけらも見当たらない。
「何を言っている」
桐山は言った。
「メス猫が産む子猫は平均四匹。うち一匹が成長すれば成功だという計算でその数だ。だから一匹ぐらい死んでも、生物学上問題はない」
何を言っているのだろう、この男は。
は、異星人でも見ているように感じた。たいして低くもないのに凄みのある声。その声で、辞書を読むように喋っている。
「どうして生物学の問題にするのよ。そういう問題じゃない、心の問題よ!」
桐山のようにうまく言えないのが悔しい。
胸の中は言いたいことがいっぱいあってモヤモヤしているのに、それがうまく言葉にならないのだ。
それにしても、可愛そうな子猫だ。それを思うと涙が出てきて、はうつむいた。もうこんなエイリアンみたいな男の側にいたくない。行こう。
が無言で去ろうとすると、
「」
静かな口調で、そう呼ばれた。
え、と驚く。
どうして桐山は隣のクラスにいるを知っているのだろう。
ぞわ、と背筋が凍る。彼の近づく気配がした。振り向くと、やはり彼がいた。
「何か……」
聞き終わらないうちに、桐山が抱きしめてきた。鳥肌がたつ。
彼の腕から逃れようとしても、ムリだ。彼の華奢な体のどこにそんな力があるのだろう。
一体、何をするつもり?
怖かった。このまま殺されるんじゃないだろうか、あの子猫のように。はそう思い、桐山の胸の中から逃れようと抵抗し続けた。
彼が腕の力をゆるめた。そして、離す。
ほっ、としたのも束の間で、今度はアゴの下を指先で掴まれ、くいっと顔を上に向けさせられた。
まさか。
と思ったと同時に、桐山がに唇を重ねてきた。頭の中が真っ白になる。
唇が触れただけではなく、桐山の舌がの口を侵してきた。上あごをなぞり、舌をからませてくる。は後頭部がムズムズする初めての感覚と、吐き気を同時に覚えた。新しい涙が頬を伝って流れる。
やがて口を離された。その一瞬のすきには桐山の胸を押して、彼から離れた。強く押したつもりでも、桐山はびくともしない。
「何するのよ?」
口元を手でぬぐいながら言って、また涙が流れた。初めてのキスだったのに。
桐山は相変わらず冷たい表情をしていた。子猫を撫でた時も、殺した時も、そして今も、同じ表情だ。
「ほら、人間というのは現金なものだろう?」
また、何かを言い出した。耳を塞ぎたい。しかし、体がショックのせいですぐに動かない。
「子猫への同情心がさっきよりも弱まっているはずだ」
ああ、耳を塞ぐのが遅かった。桐山の声が脳内に届く。
「ある心的外傷を受けても別の強力な心的外傷を受けることで、前に受けた傷を忘れることができる」
涙があふれてきて止まらない。
確かに、桐山に唇を奪われている間は一度も子猫のことを思い出していなかった。
だけど桐山はどうして、こんな風なんだろう。女子にキスを、しかもディープキスをしておいて、何事もなかったように振舞えるなんて。いや、違う。この男は顔色一つ変えずに子猫を殺した。そういう男だった。
怖い。
は、その場を走り去った。後から追いかけられそうで、それが怖くて、必死で逃げた。
あの男は、おかしい。
中身が空っぽの、機械みたいだ。機械が綺麗な皮をかぶって動いている、それだけだ。
だからさっきまでがいた、あの場所。樫のある裏庭。あの場所には、人間らしい人は誰もいなかったのだ。
誰も……。
の目からまた新しい涙がこぼれた。
なぜか唇があたたかいのが、恨めしい。
Nobody Is There:終
初バトロワ夢! しかも最も書きにくい桐山君っすよ。なんてチャレンジブル!
ちなみにバトロワは原作で読んでから映画見た派だったので、原作のキャラの方が好きです。
かつて書評であの小説をナマイキにボロ批判したっていうのはオフレコ!
冬里