劇薬


 
 甘い香りがする。男塾に来てからこのかた、こんなに良い香りなんて嗅いだことがない。
 は寝返りを打った。
 これは夢だろうか。でも夢に香りが出てくるなんて聞いたことがない。
 ここはどこだろう。寮の部屋でないことは確かだ。
 ゆっくりと目を開けると、目の前に見知らぬ顔があった。彫りが深くて整った顔立ちだが、長い髪をスプレーかワックスかで上に向くように固めあげた独特の髪型が異質な雰囲気をもたらしている。

「どなたですか?」

 寝ぼけていて舌がうまく回らないまま聞くと、相手はフッと静かに笑った。そして離れる。どうやらを上からのぞき込むようにして見ていたらしい。

「やっとお目覚めか」

 は起きあがり、辺りを見回した。ますますここがどこか分からなくなる。
 部屋は十畳ほどで、寮の部屋と広さはたいして変わらない。だが、この部屋はさっきの人が一人で使っているらしい。机や本棚やクローゼットなどが一人分しかない。それにどの家具も花の彫刻が施されているなど耽美的な西洋風のもので統一されており、これは彼の趣味に違いなかった。
 甘い香りの正体は薔薇だったらしい。
 ベッドの横にサイドテーブルがあり、その上に薔薇の花束が花瓶に生けられていた。綺麗だ。
 そういえば、ベッド。
 は今まで寝ていたのがふかふかのベッドの上だったのだと気づいた。シーツは真っ白で、端に刺繍がほどこされている。ここまで徹底しているとは脱帽ものだ。

「ハーブティーが入ったぞ」

 いつの間にかいないと思ったら、ドアを開けて入ってきた。手にはカップを二つ乗せたトレイがある。どうやらここの部屋だけではなくキッチンも向こう側にあるのだろう。
 男はベッドの近くにあるテーブルにトレイを置いて椅子に座った。そして片方のカップをに差し出す。

「ありがとうございます」

 礼を述べてからカップを受け取る。これもまた花の装飾が施された、高そうなものだ。
 薔薇の匂いとは違う、すっきりとした香りが紅茶から漂っている。熱いのでふうふうと冷ましてから一口飲んでみた。少し苦い。
 しかし体の疲れが取れるような気がした。何というか、さわやかな気分になれる。

「ごちそうさまでした」

 空になったカップを渡す。相手はカップを受け取り、をじっと見つめてきた。そして、にっこり目を細めて笑った。

「実は今のハーブティーに劇薬が入っている」
「な、何!」

 驚きのあまりむせてしまった。ケホコホとしばらく続けている間に相手はなおも続ける。

「劇薬とは、惚れ薬だ」
「惚れ薬?」

 治まってから聞き返すと、ああ、と彼はうなずいた。

「薬を飲んだ後、最初に見た異性を好きになるらしい」
「何だって!」

 は大いに驚いた。男装して男塾に潜り込むこと数ヶ月、努力の甲斐あって未だに女だとばれてはいないというのに、この惚れ薬が本物だとすれば自分はこの男を好きになってしまうわけで、そうなると正体が相手に知られてしまう。顔から血の気が引いていくのが分かった。
 この男を好きになるのか、自分が。
 もうお茶を飲んだ後に見てしまったので今から見ても同じだ。ということで、改めて相手を観察する。まずその人の色白できめ細やかな肌が目について、女心にそれが羨ましい。でも、これは羨ましいだけで惚れてはいないのだ。整った顔を見る。なに、このくらいなら桃だって負けてはいない。たくましい体躯、鍛え上げられた筋肉。自分以外の塾生みんなに(あの椿山にさえも!)備わっているものだ。大丈夫、惚れてはいない。
 ふと見ると、テーブルの上には空いたカップが二つ。男も同じハーブティーを飲んだということになる。まずい、惚れられてしまう?
 心臓の鼓動が激しくなった。いや、これは恋による鼓動じゃなくて動揺によるもの。そう、動揺によるもの!

「冗談だ」

 声を上げて男は笑った。

「嘘だったのですか!」
「そんな薬があるわけないだろう」

 男は笑いをやめない。

「まさか本気になるとはな。だいたい、同性同士なら何事も起こらないんだぞ?」

 あっ、とは気づいた。しまった、と思ったがすかさず、

「そ、そういやそうですよね。男同士だと何も起こらないこと、忘れてました」

 最後らへん、声が裏返ってしまい動揺を隠しきれなかった。
 男は笑いをやめる。立ち上がった。

「他の奴らが感づく前に行くぞ」

 の手を取った。勢い余ってバランスを崩し、男の胸に倒れ込んだ。

「す、すみません」

 いけない、まだ動揺している。しっかりしなければ。
 が離れようとすると、男はがっしり抱きしめてきて離さない。

「俺の名前はセンクウ。男塾死天王の一人だ。貴様は?」
「お、俺は、一号生、

 胸の高鳴りがさっきのとは比べようもないくらい大きなものになっている。息苦しかった。

「まだ一号だというのに鎮守直廊を一人で突破してくるとは、大した度胸だ」
「俺は・・・」

 単に迷い込んだだけだとは言えないほど、胸が苦しい。

「女だからと言って退塾させるには惜しい人材だ。今日俺が知ったことは黙っておいてやる」

 優しい声が耳にそっと入ってきた。
 正体がこの男にばれたのだ、という危機感は生じない。黙っておいてくれるというその言葉が信じられるように思えた。

「ありがとうございます」

 正体が知られたけれど、相手は知らなかったことにしておいてくれる。これで安心できるはずなのに、胸の高鳴りはまだ治まらない。
 どうやらそれは、この男、センクウに抱きしめられていることに関係するらしい。異性にこんなことをされるのは生まれて初めてなのだ。
 彼が、抱きしめている腕の力をゆるめた。その代わりにはあごをつかまれ、くいっと顔を上に向けさせられる。
 センクウの顔が近づいてきたので、思わずぎゅっと目を閉じた。顔が熱い。
 額に柔らかな感触がして、それが離れてすぐに目を開けるとセンクウはすでにから離れていた。

「口止め料だ」

 そしてさっさと先を歩いて行く。ひらりひらりと舞うマントを追うようにしては部屋を出た。
 もしかして惚れ薬は本物だった?
 そっと額を撫でながら廊下を歩く。まだ胸がどきどきとうるさかった。

劇薬:終


 久々の更新、思い切って死天王を書いてみました。センクウさんです。
 他の塾生とは違って邪鬼さんとセンクウ先輩が様の正体を本人の前で証しさらに口止め料を請求できているのは三号生の特権だと言えなくもないです。特別扱いなんです。
 センクウ先輩のキャラがつかめないままにこんなことに。でも部屋にバラは飾ってそうですね、あの人は。   
      冬里