――3.アトリエ ――
そこまで思い出しているうちに、嵐は家に着いた。パンツのポケットから鍵を取り出し、開ける。広い家なのに、いるのは自分一人なのでどこか寒々としていた。
の足を爪先まで見たのは、自分だけかと思っていた。しかし今日、美術館で見た父の作品が、そうではないと物語っている。父も、の足を見ていた。いや、足だけじゃない。あの像は裸だったではないか。
試合で負けそうになった時のような感覚に襲われ、父のアトリエに向かった。いつも鍵はかかっていない。ドアは簡単に開いてくれた。日当たりの良い室内。壁にはスケッチが何枚も貼ってある。そのうちの何枚かは、美術館の中にあった男性像だった。しかし、大半は……のスケッチだった。
横座りしている、膝を抱えてうずくまっている、寝転んでいる。
美術館で見た、膝を抱えて座っているのスケッチは四通りあった。正面、左右面、背面。
どのも全裸だ。なのに、微笑みを投げかけている。なぜ、笑えるのだ。
嵐は頭に血が上るのを感じた。壁に貼ってあるスケッチに向かい、画鋲も取らず無理矢理それを引っ張りはがす。が全裸で横たわっているスケッチだ。胸も、何もかもさらけ出している。特に足は細かく描かれていた。
乱暴に音をたててドアを閉め、二階に上がった。自分の部屋に入ると、鳥カゴの九ノ助が「オカエリ、オカエリ」と迎えてくれる。
いつもはカゴから出してやるのだが、今はそんな気分ではない。ベッドに倒れこむ。手に持っているスケッチを取り出し、その中にいるを見つめた。
心臓の音がうるさい。
手が、ふるえていた。このスケッチには、全裸のがいるのだから。少し膨れ上がった胸、細い腰、長い手。きれいな足。ため息がこぼれた。本当に、きれいな足だ。
それを見たのが、自分だけではないなんて。父が、の足を、全身を、見ていたなんて。そう思うと苦しくなった。胸のあたりが苦しい。
枕に爪を立てる。少しはマシになるかと思ったのだ。しかし、苦しみは増すだけだ。あの日当たりのいいアトリエで、が全裸になっている様子が脳裏に浮かぶ。様々なポーズをとり、長時間、父に全てを見られている。
スケッチをくしゃくしゃに丸め込み、ゴミ箱に投げ込んだ。まるでその事実を取り消すかのように。
「……」
意識が、朦朧としてきた。まぶたが重く開けていられない。ゆっくり、ゆっくりと眠りの中に引きずり込まれた。
「フトイアシ、フトイアシ」
「うるさいわね、九ノ助!」
突如として聞こえてきた声でハッと目が覚める。
起き上がると、が鳥カゴにいる九ノ助と睨めっこをしていた。
「? なんでこんなところに?!」
「あ、やっと起きた」
がこちらを振り向いた。パーカーに、今日はミニスカートだ。露わになっている膝頭から下を見て、胸が痛くなり目をそむけた。
「お前がなぜここにいるんだ」
もう一度聞く。すると、は眉をひそめた。
「今何時だと思ってるの? 何の連絡も無いのに練習来ないから心配になって来たのよ。呼んでも誰も出ないし、でもカギはあいてるし。で、勝手にあがらせてもらったわ」
「なっ……?!」
時計を見ると、練習開始時間はとっくに過ぎていた。こんなことは初めてだ。
「起こしたんだけど、まったく起きないんだもの」
が、先手を打って言った。舌打ちをし、練習に行く用意をする。
「ところで、なぜここが分かった?」
カバンを持ち、九ノ助のカゴを開ける時に聞いた。
「あ、それは……」言い出し難そうに、もじもじしている。「ずっと前、おじさんのモデルをしに来た時にね。あ、黙ってたけど、おじさんにモデル頼まれたことあったの。でね、その……九ノ助に会いたいって言ったらおじさんがここにつれて来てくれたから……」
「オヤジが?」
を睨んだ。は驚いたのか、大きな目をさらに大きくした。
「ごめん。でも、おじさんを責めないで。私がワガママ言ったから」
ワガママか。そう言えばここ何年も父にワガママを言っていない。はモデルとしてここに出入りし、父と親しくなったのか。ワガママを言えるくらいに。嵐は腹に錘を入れたかのような感覚に襲われた。どうかしている。に嫉妬するなんて。
「もういい。そのおかげで俺は起きれたんだ」
ため息まじりにつぶやくと、がホッと安心したかのような表情を浮かべた。
「じゃあ、行こう。みんな待ってるよ」
そう言ってこちらに背を向け、ドアに向かう。スカートがひるがえった。形のいいふくらはぎのライン、ソックスから盛り上がっている、くるぶし。眠っていた胸の痛みがよみがえった。
「、モデルのことだが……」
苦しさのあまり、つい口に出してしまった。しかし、どう繋げていいか分からない。まさか、父の前で裸になったのかなどと聞くことはできないだろう。
「モデルは、どんなことをやった?」
は立ち止まり、振り返った。
「どうしたの、急に?」
そう返されると、どう言えばいいのか分からない。とりあえず、
「何でもない。少し気になることがあって」
と言っておくとは興味深そうにこちらを見てきた。
「いろんなポーズをとってねえ、ずっとそのままでいるの。あと、おじさんは私の足とか腕とか、体全体の線を見たいからって……」
ここで、は言葉を区切り、嵐の様子をうかがった。その目はいたずらっぽく光っている。
「で、どうしたか知りたい?」
いじわるそうに、笑った。
「別にいい」
本当は気になることだが、それを言うわけにはいかない。さも興味なさそうに答えた。
「嵐くん、顔赤いよ?」
そう言われて、とっさに手を顔にやる。本当だ。少し顔が熱い。
「やだなあ、何を想像したのよ」
「うるさい。早く練習に行くぞ」
に遊ばれている気がして、悔しくなった。いつの間にか、あの苦しさは消えている。そもそも、なぜ苦しかったのかが分からない。
家を出て、二人と、一羽で走った。連盟支部まで走ればすぐに着く。は嵐のペースにもついて来た。やはり、その足はランナーの足なんだと妙に納得する。
息を弾ませながら、二人で走った。風をきって、土をけって。