――1.Musiam ――
どうしてここにいるのだろう。
嵐は冷たいフロアーを歩きながら、ふとそう思った。聞こえるのは彫刻に注目する人々の息や咳払いの音、そして足音だけだ。立っている警備員は緊張した面持ちでこちらを睨んでいる。誰もが彫刻に夢中なのだ。
場違いだったかな。
昨日の晩、久しぶりに父と外食をした。本当に、久しぶりだ。母が亡くなってから嵐は父と会話をしたことがなかった。球川小と対戦し、負けるまでは。
酷い父だと思っていた。事故に巻き込まれて瀕死の状態であった母の見舞いに来ず、葬式にも参列せず、ひたすら父は頼まれていた球川小の闘球像を彫っていた。仕事人間。そう言えばまだ格好の良い響きがある。母に会うこともなく、アトリエに閉じこもり、彫っている父は狂っているようだと幼心に思った。あの時は、母の願いを叶えるために、母のために、闘球像を彫っているのだとは全く考えもつかなかったのである。
球川小との対戦で誤解が解けて以来、ぎこちなくはあるが話をするようになった。あれから数ヶ月経った今でも、多少ぎこちないのだが。
そんな父と昨日の晩、レストランで食事をした際、父がおずおずと取り出したのが展覧会のチケットだった。父が上着の内ポケットから指先を震わせながら取り出し、テーブルの真ん中にある花瓶の側に置いたシーンはよく覚えている。
震えなくていいのに。
花瓶に生けてあるバラの花びらが妙に赤いのか、テーブルクロスが白すぎるのか。置かれたチケットもまた、おずおずとしてそこにあった。
「明日からやるんだ。良かったら見に来ないか」
チケットを取り上げ、書いてある文字を見た。美術館のチケットで、特別展として父の作品展覧会があることが分かった。
父はじっとこちらを見ている。厳しい目をしているが、中身は小心者なのだということは最近になって分かってきた。あごの近くで両手を組み合わせ、テーブルにひじをついているのを見ると落ち着いているように思える。しかし、手は小刻みに震えているのだ。
だから、どうして震えるんだ。
「わかったよ」
仕方なく、そう答えた。その直後で、あっさりと正直に答えてしまった自分が恥ずかしくなった。あの震えている手に負けたみたいではないか。あわてて、しかし表面では落ち着き払って付け加える。
「明日、創立記念日で学校は休みだから、練習まで暇なんだ」
チケットを服の胸ポケットに突っ込んだ時、父が微笑んだ。そう言えば、父が笑うのを見るのも、久しぶりだった。
しかし、天気の良い日に冷たい館内に閉じこもって彫刻を見る人の気が知れない。裸の男性や女性があらゆるポーズで立ったり座ったりしている像を見て何が楽しいのか。それに、誘った本人がどこにもいない。こんなことなら自主トレでもしているんだったと後悔した矢先、嵐の目の前に小型のブロンズ像が現れた。
50センチくらいだろうか。2メートル以上の大きな作品ばかり並んでいる中、その像は目立っていた。少女の像だ。大事に、ケースで囲われている。
少女はひざをかかえて座っていた。ひざに頬をのせて顔をこちらに向けている。長い髪が肩や腕に流れていて、小顔の整った顔立ちには見覚えがあったが、誰だか思い出せない。思い出そうとしてよく見ようとする。しかし、裸像だ。少し膨れた胸は腕とひざとで見えないが、嵐は恥ずかしくなった。さっさと離れよう。そう思って最後にチラリと見たのは、少女像の、足だった。
細い線であるが、しかし適度に筋肉がついている。すらりとくびれた足首から広がる甲はふっくらとしており、足の指は整っており、爪もきちんと整っている。以前、こういう脚を見たことがあった。
だ。
そう、思い出した。マネージャーのだ。
「嵐」
声をかけられ、振り返ると父がいた。
「来てくれたか。すまんな、午後からの講演会リハーサルに手間取った」
「いや、いい」
父は嵐が先ほどまで見ていた作品に目をやった。
「これが、気に入ったのか」
父に何かを見透かされているようだ。
「これだけ、他と違って小さかったから目に止まっただけだ」
少しこの像に魅入ってしまったのを否定したかった。思わず声が大きくなり、静かな館内に響いた。他の客がこちらを見ている。
「そうか」父はうなずいた。「この作品だけは、特別だからな。こんなに細かいものを彫ったのは初めてだ」
嵐が大声を出したのに気にもとめず、父は作品を守っているケースに目を近づけた。こういう仕草をしているのを見ると、父は芸術家なんだと思い知らされる。
「モデルは、お前のチームのマネージャーだよ」
「そうだったのか」
気づいていたが、知らなかったふりをした。妙に勘繰られても困るからだ。
「いい娘だよ。見ていると、インスピレーションが沸いた。モデルになってくれと言ったら、練習や試合などが忙しいからと断られてね。何度も頼んでようやく承知してくれた」
息子にチケット一枚渡すのにも手が震える父が、そう熱心にモデルを頼むとは。恐らく、彫刻のことになると形振りかまわなくなるのだろう。
そういうので、いいのに。
芸術以外のこととなると、気弱になる。そういう父を見ていて胸に錘を乗せた気分になった。これから先も、今のままだろうか。
「いい目をしているだろう。母さんと同じ目だ」
目は、見ていなかった。彫刻の目はくぼんでいる。生きている目とは全く違う。
「それに、この足が気に入った。いい足だ」
足。父もまたの足を見ていたのか。そう思うと嵐にまた別の感情が生まれた。胸の奥底が焼けているような感覚。は、父の前でその足をさらした。何時間も、何日も。胸から昇ってきた熱が全身にまわる。
「どうした、嵐?」
顔を覗き込んでくる父を見て、我に帰った。今、妙な感情に支配されていたのはなぜだろうか。
「帰る」嵐は咄嗟にそう言った。「帰る。練習があるから」
「そうか。よく来てくれたな」
父に出入り口まで送られ、それから、あの静かな冷たい美術館から脱け出た。
数歩進んでから、振り向くと父はまだ立っていた。
そこまでしなくても、いいのに。
父はぎこちなく、手を振っていた。その姿がなんだか哀れに見えて、仕方なく自分も少しだけ手を振り、それから父に背を向けて走り去った。
走って家に帰りながら、嵐は先程館内で湧き上がった感情は何だったのかを探っていた。不思議だ。どうしてあんな気持ちになったのか。あの気持ちは、一体何だろうか。
嵐の脳裏に、の姿が浮かぶ。
嵐は、が一度だけ自分に足をさらした時を思い出した。