神戸にて



 神戸に海軍操練所がある。  ある日、勝海舟が自室の戸をあけようとすると、中から声がした。思わず聞き耳をたててしまう。

「ここが、アメリカぜよ」
「アメリカ、黒船の国?」
「そうじゃ。この国じゃあ大統領っちゅう将軍みたいな役職が、大工や傘職人の子からでも選ばれるんじゃ」
「そんなことが? 誰が選ぶのです?」
「それも、アメ売りから大商人から、アメリカに住む人みんなが選ぶぜよ!」

 すると、驚きに満ち溢れた声がした。うわあ、と心地良いくらいに仰天している。
 土佐弁で講義しているのは間違いなく、この海軍操練所で塾長を務めている坂本竜馬だ。では、もう一人の声は誰だろう。聞いていると、女子のように声が高い。

「竜馬のやつ、女を連れ込んでやがる」

 しかも師匠の部屋に。しかし勝は別に腹が立たない。むしろ、堂々と連れ込んで講義するという行為が面白いではないか。
 どんな女か見てやろう、と勝は戸を開けた。
 そこにいたのは竜馬と、大小を帯び、総髪に結った若者だった。女ではない。少しがっかりした。

「こりゃあ、勝先生!」

 二人は地球儀を一緒に見ていた。若者は勝に気づき、あわてて居ずまいを正した。

「地球儀を借りちょりました。こいつは、
です」

 竜馬に紹介してもらい、は頭を低く下げた。

「いい、いい。そんなに畏まらなくても。頭を上げろ」

 が頭を上げたところを見ると、どきりとするほど美しい。諸侯が競って小姓に召抱えてもおかしくないほどの容貌だ。
 勝は二人の前であぐらをかいて座り、二人をまじまじと見比べた。
 竜馬はよれよれの袴にちぢれてボサボサになった髪をしていて、相変わらずむさ苦しい。他方、は髪油をなでつけ、折り目正しい袴を着ている。錦絵から出てきた役者のようだ。

「同じ男でも、竜馬とじゃえらく違うなァ。竜馬はもっとを見習えよ」

 言うと、竜馬が大げさに手を振った。

「ちゃっちゃ、勝先生、は女子ぜよ。けんど、元新選組隊士ですがのう」
「女? 新選組?」

 改めてを見た。勝はなるほど、とうなずく。男にしては線が細すぎる。それに、綺麗すぎだ。

「女というのは分かったが、元新選組隊士というのは何なんだえ?」

 勝は、最近できたと言われるあの人斬り集団を好んではいない。この美しい女性と新選組を結びつけるのは容易ではなかった。

「よく脱けれたもんだぜ」
「わしが攫って来ましたき」

 勝はずるっ、とこけそうになった。

「攫うだって?」

 何をするにしても、奇抜な男である。
 聞くと、の他にも歩いていた隊士がいたのだが、彼の目の前で堂々と攫っていったらしい。
 目を丸くする新選組隊士とを担いで走り去る竜馬の絵を思い浮かべて、勝は笑った。

「勝先生」

 ふと、竜馬がまじめな顔を勝に向けた。

「わしは、今どんな顔をしちゅうがか?」

 唐突に何を言いだすか分からない男だ。
 勝はさらりと、

「いつも通りの変なかおだァな」
「変な顔かにゃ」

 少し残念そうである。

「なんでお前さんが今さら顔のことなんか気にするんだい?」

 聞くと、竜馬は照れくさそうに頭をかいた。

「いやぁ、わしが女に惚れた顔はどがなもんかと思ったがやき」

 竜馬が、女に惚れた?
 ちらりと見ると、が顔を真っ赤にしている。
 勝はなんだか面白い、と思ってきた。
 つまりこの竜馬という男は、惚れた女を新選組から奪ってしまったのである。
 ワハハ、と声に出して勝は笑った。

「てぇしたもんだ!」

 竜馬も、も。竜馬は江戸っ子なら皆が拍手を送りたがるようなことをしでかし、は竜馬という男を惚れさせ、自分を攫わせた。女冥利につきるというものだ。

「お前さんも、大した男に惚れられたなァ」

 しかしがずっと男装したままだというのが気にかかった。
 新選組隊士でいる時は正体を隠す必要があったろうが、ここではその必要はない。
 勝がそれを言うと、は平伏した。

「お願いでございます。私を弟子の一人に加えてください!」
「ああ、いいよ」

 勝があっさりと許したのが意外だったのか、は頭を上げてぽかん、とした。

「女子でも弟子にすることはできるさ。だから別にその格好じゃなくてもいいだろう」

 の年頃であれば女子は化粧をし、派手な着物を身に着けるのに忙しいはずだ。それなのに、が地味な色の男物を着ているのが哀れに思える。

「いいえ、この格好がいいのです。女の着物は動き難いですが、男装していると自由に動けます」
「ほう」

 感心した。おそらく、竜馬と一緒にあちらこちらを走り回るつもりだろう。
 今の時代、女子が男どもに混じって海軍を学ぶのは世間的に厳しい。しかし男装していれば少しは自由に動けるかもしれない。
 勝はに興味を持った。竜馬が惚れた女というのもある。しかしそれ以上に、彼女の向学心と奥底に秘められているであろう才能に魅力を覚えた。

 竜馬とが部屋を出て行ってから、勝は机に向かって筆をとった。
 手紙を書く。あて先は会津中将、松平容保だ。
 新選組は烏合の衆の集まりで、まだ正式な隊規などないだろう。だから一人がぬけても何のことはないかもしれない。
 しかし念には念を、だ。後になって腰抜け旗本の代わりに新選組のような連中が幕府にとって必要になった時、新選組が脱退したを捕まえに来ないとは言い切れない。

「俺も甘いなァ」

 勝はそうつぶやいて、容保候にの新選組脱退を許してほしいと手紙に書いた。

神戸にて:終

「白昼堂々」の続き、勝海舟視点の話でした。第三者から見た様と竜馬はこんな感じだよ、というのを示しただけだったような……あちゃ。
 次回は少し時代が飛んで、亀山社中時代のを書けたらと思ってます。  
      冬里

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