征夷大将軍
「家茂様! 家茂様!」
宿舎としている二条城に帰り着くや否や、将軍を呼ぶ高い声が鴬張りの廊下に響き渡った。
時は嘉永三年。この年、帝の攘夷祈願に随行と称して徳川家茂は上洛していた。三代将軍、家光以来となる上洛だ。
「家茂様!」
大声で呼んでいるのは、小柄な体に裃を着け、総髪を大たぶさに結った小姓である。しかし男にしては美しすぎる。線も細い。
その小姓は女なのだ。名は。
の家には女しか生まれなかったので、末っ子の彼女は男として父に育てられてきた。それで、今は小姓として家茂に仕えている。
仕えているとは言っても、家茂とは乳兄妹なのだ。家茂がまだ慶福と呼ばれていた頃から仕えていることから、多少の無礼は許される。例えば、今やっているように大声で家茂の名を呼び、ずかずかと将軍の謁見室に入るなど。
「どうしたのだ、。騒々しいではないか」
他の小姓が家茂の着替えをさせたところだった。しかしは構わずに前へ進み出、跪く。
「家茂様! 私は悔しゅうございます。今日の、あの男!」
「あの男? 誰のことを申しておる?」
「家茂様!」
は顔をあげた。家茂はすでに座っている。他の小姓は隅に控えていた。
「お忘れになったのでございますか?! 帝のお供で京の街を行く際、無礼を働いた者でございます。家茂様に向かって『よっ、征夷大将軍!』などと……まるで歌舞伎役者にでも呼ばわるように!」
言葉につまり、頭を下げた。よほど悔しいのだろう。徳川将軍が大衆の面前でこのような屈辱を受けたのは初めてである。
これが将軍のみの行列であれば、即刻そのような者は無礼討ちにできた。しかし、このたびは帝の随行という名目がある。帝の行列で随行者が無礼討ちなどをして列を乱せば、それは帝に対して無礼を働くことになる。それでは歯を食いしばってその場を耐えたのだ。
「私は見ましたぞ、あの男の顔を! 聞けば長州藩士、高杉晋作と申す者とか。奴はまだ京にいるでしょう。奴を斬りに行きます。しばしの御暇を下され!」
一度腹を立てると、物騒なことを言いだすのがの癖だ。家茂はまあ、まあ、となだめた。
「そちが高杉とやらを斬りに行って返り討ちにでも遭うと、余はどうなると思う? もはや生きてはいられまい。余の身を案ずるのであれば、左様な振る舞いはいたすな」
さすがにそう言われると、止めざるを得ない。かしこまってござる、とは答えた。家茂は座を降り、に近づいた。その肩を抱く。
「余も、あの男の顔を見たぞ」
「家茂様も?」
家茂はうなずき、の目を見つめた。家茂の涼しげな目元を見て、は頬を赤らめた。すぐに目をそらす。
何かを察してか、他の小姓は一礼をして部屋を出て行った。二人きりだ。
「余は、病弱な身だ。今まで生きてこられたのが不思議なくらいだろう。だからなのか、人には分からないことが分かる時がある」
そして、一呼吸ほど置き、
「高杉とやら。あれはそう長くないうちに、命を使い果たしてしまうだろう」
「あの男が、でございまするか?」
天下の徳川将軍に向かってあの様な振る舞いをする者は、いくら斬っても死なない図太さがあると決まっている。それが、長くは生きられないのだと……。
家茂には不思議なところがあった。幼少の頃より仕えていたには分かるのだが、時折、何か先のことを当ててみせる。何度もそれを見ていたから、は家茂の言うことを信じていた。しかし、高杉が誰かに斬られたり戦で倒れたりするのではなく「命を使い果たし」て死んでしまうというのは、さすがに信じ難い。
「信じられぬか?」
「はい」
正直に答えた。それが、幼い頃より仕えている者の特権である。家茂は柔らかな微笑を浮かべた。
「あれは、そういう激しい人生を送っているのだ。余はああやって動き回れるあれが羨ましい」
なんとも穏やかな口調である。それが家茂という男なのだ。相手が幕府にとって有害な長州藩士で、しかもあのような無礼を働いた者であっても、決して腹を立てるなどはしない。
雲のようにふわふわと穏やかなのだ。そういう家茂だからこそ、は慕ってきた。
本来、乳兄妹ならば然るべき役職が与えられてもいい。しかし、は男として育てられてきたからとは言え、女だ。女に職は与えられない。かといっては、女に戻ることは拒んだ。女になり、どこかに嫁いで家茂から離れたくはなかったのだ。大奥に入るか、という話も出た。これも拒んだ。男として家茂に接してきたが、女として家茂の側室になるなどできるはずがない。
は家茂に願い出て、男の姿のまま小姓の役に就いたのだ。小姓であれば、上洛のお供もでき、護衛もできる。それほどまでには家茂を敬い、慕っているのだ。家茂のためになら命もいらぬ、といったところだろう。
「長州藩は幕府に対して何やら不穏な動きを見せております。あのような男を羨ましいなどと仰られますな」
一応、たしなめておいた。何しろ、家茂は将軍なのである。
この時代まで、武士は「公」ということを常に意識していた。武士は苗字帯刀を許されており、百姓に食べさせてもらっている身分だ。だからその身は自分を超えた、社会や秩序や大衆のためにあるのだとしている。それが公の意識であり、家茂の場合は将軍という立場にある以上、将軍に求められる道から外れたことを謁見室で口に出すのはよくない。さすがに家茂もそこを心得ている。
「ここではと話ができぬな。庭園にでも出よう」
ということになった。
二の丸に庭園がある。ちょうど梅の季節であり、白梅や紅梅が花を咲かせていた。その木の下を歩くは、絵から飛び出してきた者のようだ。
「、余は先ほど高杉晋作とやらを羨ましいと申したな」
「はい」
池を囲む、色彩に富んだ大小さまざまの石組を二人で見ていた。
「余は、この乱世に将軍となったのが残念に思って仕方がない」
これは、将軍家茂ではなく、私人家茂の声だろう。はうなずいた。その気持ちは分かる。
「もっと、別のところに生まれて来ればよかったのじゃ。そうすれば世の移り変わりを外から眺められる」
「例えば、どのようなところに?」
「そうだな、商人の後継ぎはどうだ?」
将来は若旦那か。はおかしくなり、笑った。家茂もハハハと笑う。そうやって笑いながら、
「余は高杉と同じで、長くは生きられぬ。日本が新しい世を迎えるのが見れぬとは、それこそ残念じゃ」
いつも家茂が言っていることである。は、またそのようなことを、とたしなめた。いつもならそれで家茂が「すまぬ」と詫びて終わることだが、今日は違った。京の都に来たという地理的な変化が、いつもより感傷的にさせたのだろう。
「余がなくなった後のそちの行く末が心配でならん」
そうつぶやいた。は驚いて、家茂の顔を見た。憂いの表情を浮かべて、家茂もを見ていた。
「なに、家茂様を一人で逝かせません。私もお供しますから」
わざと笑いながら言った。この話をこれ以上続けたくはなく、この一言で終わりにしたかった。しかし、家茂は何か思いつめているところがあるのだろう。
「それは余が許さぬ」
穏やかな家茂には珍しく、大声でを叱った。
あたりがしん、と静まる。
「そちは余の一部であり、余はそちの一部じゃ。余の寿命は短いが、その分そちは長く生きて新しい世を見届けよ」
「家茂様……」
風が吹いた。池の水に波紋が浮かび、梅の花びらがそこに落ちる。
「はい、家茂様」
は頭を下げた。家茂の、それでよい、という声が降ってくる。
「そちは余の一部であり、余はそちの一部」という言葉が、には嬉しかった。主従関係や、男女関係などを超えている。これほどまでに深い結びつきはあるだろうか。
頭を上げて、空を見た。初春の空は、見えないはずのない星まで透けて見えそうなほど澄んでいる。
乱世の時代でも、空だけはいつの世とも変わらない様子で晴れたり曇ったりするのだ。
「必ず、新しい世の中をしかと見届けます」
我ながら単純だとは思いつつも、家茂の命に従い、はそう約束したのだった。
征夷大将軍:終
なぜか、数多くいる幕末人物の中から家茂を書いてしまいました。
あの人は病弱だったし、将軍になりたくなかったらしいから、幕末の動乱も半ば客観的に見ていたんじゃないかと思います。
しかし、電波な将軍ですみません。こうなったら、次は慶喜じゃ!!(←なぜ?)
冬里
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