ぱたぱたぱた……。
朝。廊下をかける音が部屋に響いてきた。
土方歳三は発句帳を隠し、立ち上がる。障子を開けると誰かが雑巾がけをしていた。たすきをしているため、白くて細い腕が日光の下で光っている。
あれはの腕だと気づいた。
「土方先生!」
土方に気がついたは手を止めて立ち上がった。
「朝からお騒がせして申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げ、また戻す。
穏やかな光に照らされたの笑顔に、土方はしばらく魅入っていた。
甘味処
。局長の小姓を長い間勤めている。たいへんな美男子ということで新選組の内外問わず評判になっていた。
しかし誰もその正体を知らない。ただ一人、土方歳三を除いては。
「」
声をかけつつ、に近づいた。
そして頭からつま先まで視線を這わせ、おかしなところがないか調べる。少し胸元が開きすぎじゃないか。そう気づいた時にはもう、の襟元を直してやっていた。腕も露出しすぎている。どう見ても男の腕ではない。
無言のままでいると、が不思議そうな顔をした。それに気づいて、土方は適当に思いついたことを口にする。
「今日は非番じゃなかったか?」
「はい。ですから掃除でもと思いまして」
と言い、はにっこり笑った。
馬鹿、と土方は胸のうちで毒づく。男はそんなに笑顔を振りまくものではない。
それを言いたかったが、抑えた。
そういえば、は疲れているに違いなかった。
近藤はを気に入っている。そのため、用事のある時はいつもを供として連れて行く。ここのところ近藤の外出が続いた。それにつけ加えて小姓の仕事だ。
「たまの非番だ、ゆっくり休んでおけ」
そう言ったところで、隊士にかける言葉としては甘過ぎたかと思いなおし、
「体に疲れを溜め込んだままでは、いざという時に何もできなくなる。そうなれば足手まといになるだけだ」
そうつけ加えた。
は、ハイ、と歯切れのいい返事をして礼をし、去って行った。
その後ろ姿を目で追う。は髷を結っていない。総髪で、くくり上げた髪を後ろに垂らしていた。土方もその髪型である。
ただ、の場合は垂らしている髪が人よりやや長く、歩く度に大きく揺れ動いた。もう少し髪を切るべきだな、と土方は思う。長い髪になれば、自然との正体に気づく者も出てくるだろう。
の正体。
それは、女であることだ。
どういういきさつで男装して入隊したのか土方には分からない。ある偶然からその事実を知ったのだが、は土方が正体に気づいていることを知らないのだ。
土方はの正体に気づかぬふりをしていた。本来ならば女が新選組に入るなどもっての他だ。すぐに追い出すべきである。
最初はこっそりとに脱退させる工作をしようかと思ったが、近藤がそれを許さないだろう。ずっと小姓として手元に置いておくほど、彼はを可愛がっている。それには見かけによらず並の男よりも勇気があり、剣の腕も確かだ。それが勿体なくもある。
それに……。
もう一つ脱退させたくない理由がある。しかしそれは抑えなければならない理由だ。が新選組隊士である以上は。
※※
その日の昼下がり。
土方が所用で出かけた帰り、八坂神社前の甘味処でを見かけた。
店の前を通った際、たまたま店内に目をやるとが座敷に座っていた。こちらに後ろ姿を見せているので分からないが、何かを食べている。
の向かい側に男がいた。
最近入ってきた隊士で、加納惣三郎である。こちらもかなりの美男子だということで評判になっていた。しかし加納は衆道に染まったともっぱらの噂であり、土方は苦手である。
店の前で二人を観察するのも間抜けな話なので、このまま見なかったことにして帰ろうかと思った。
しかし、と加納がなぜ二人でこんな所にいるのかが気になる。気になる、と言うよりも悪い予感がした。
思い切って店に入る。店の女が案内した席に座る。それがたまたま、加納の後ろだった。
しかし幸い、客が多いため二人には気づかれていないようだ。二人に背を向ける形で、土方はとりあえず餅を注文する。
「いつ見てもさんはきれいだなあ」
加納の声が間近で聞こえる。土方はそれで鳥肌がたった。
「男が男にきれいと言われても困る」
の声だ。何か食べながら喋っているのか、少し声がくぐもっている。
「仕方ないでしょう、きれいな貴方が悪い」
「さっきから何だ? 人の顔をじろじろ見て! それより、奢ってもらっていいのか?」
「実家からの仕送りがあきれるくらいありますので、ご心配なく」
そうだった。加納は京都でも一、二を争う大商、越後屋の三男だったのだ。隊の給金の数倍は仕送りをもらっているだろう。なんて嫌なやつだ、と土方は思った。
「じゃ、遠慮なくもらうけど。何か相談があったんじゃなかったか?」
「そう。それなんです。僕の噂を知っていますか? 田代さんと僕が衆道の仲であるって」
加納は哀れみをさそうような声使いだ。土方の眉がぴくりとひきつる。
「そんな噂もあったか」
「ありました。だから僕は困っているのです。田代さんは僕に付きまとっているだけだ。迷惑なんです」
「加納君は男のくせに女々しいな」
そう突っ込んだに土方は拍手を送りたかった。
加納は田代と何もないと言っているが、何かあったに違いないという確証は土方自身の手で得た。現に今の加納は女みたいになよなよしていて、に甘えている。それが土方の癪に障った。
「要は、俺の方から田代に言っておけばいいんだろ?」
「そうしていただけるのは有り難いですけど、僕の言いたいことはもっと別にあるんです」
「何?」
「さん、今から僕と一緒に遊びに行きましょう」
は、「はあ?」と間の抜けた声を出した。
土方は加納の抱いている下心を見抜いている。どこかに連れ込んで衆道の道に引き込もうという魂胆だろう。
が男ならば、放っておくところだ。衆道だろうが何だろうが、当人同士の問題なら土方が入り込むべきではない。
しかしは女である。そうなると別の問題だ。
「!」
たまりかねて、土方は二人の方を向いた。彼の姿を認めたは、目を丸くしながらも居ずまいを正す。
の様子を見て加納も土方に気づき、同じように畏まった。
「お前に頼みたい用事があって、探していたのだ」
もちろん用事などない。探していたというのも、口から出任せのようなものだ。
「加納君、席を外してくれるか?」
ギロリと加納を睨む。
鬼の副長と呼ばれ、隊士に恐れられている土方だ。そう言われると従うしかない。
「失礼致しました」
加納は一礼をし、勘定を済ませて外に出る。顔を真っ赤にしていて、目に憤慨の色を表していた。あと一歩というところで目的を遂げられなかったのが悔しいのだろう。衆道の者が抱く執念には恐ろしいものがある。
「土方先生、用とは何でしょう?」
が真剣な顔をして聞いてきた。これには、さすがの土方も参った。元々用事などない、と言うしかない。
我ながらムチャをやったものだ、と土方は後悔した。普通に考えてみれば、新選組の副長ともあろう者が一隊士の貞操を守るために動くものではない。
迷った末、
「本当は用などなかった。貴様が加納の餌食になりそうだったから止めたまでだ」
早口で本当のことを言う。
が口を開けてぽかん、としている間に、
「お前が衆道に入って隊務を怠ると、局長が悲しむ。そうなると困るからな」
そうつけ加えた。
それを聞いては表情を和らげ、笑う。
馬鹿、そこで笑う奴があるか。土方は口には出さずにを叱った。
「ありがとうございました」
は礼を言い、
「ところで、土方さんも甘い物がお好きなんですか?」
と聞いてくる。
土方はまた返答に困った。別に甘い物が好きだというわけでもないのだが、こんな店に来るのだから甘党と見られても仕方がない。
鬼の副長が甘党とは格好が悪すぎる。
「あも、お待ちどうはんどす」
折りよく、頼んでいた餅が来た。目の前に置かれたそれには餡がたっぷりのっていた。それを見て少したじろく。
「ご心配なく。皆には言いません」
案の定、は勘違いしている。まあ、それでもいいだろうと土方は諦めて箸をとった。
ふと見ると、が土方の餅をじっと見ている。
いつの間にか、は丼のような椀を空にしていた。中に餡のあとが残っているのを見ると、汁粉でも食べたのだろう。それでも足りないという顔をしている。
「食え」
食べようとしていた餅の皿をに押しやった。
「土方先生?」
「それだけでは足りないだろう。それとも……」
土方は意地悪く笑ってみせる。
「俺の餅が食えないっていうのか?」
「そんな、めっそうもない!」
はペコリと頭を下げて「いただきます」と手を合わせ、食べ始めた。目が輝いている。
「おいしい」
は嬉しそうに微笑みながら食べた。
目の前にいるのが新選組隊士のではなく、普通の女であるであったら。土方はふと、そう思った。
それにしてもよく笑う奴だ。男の格好をしているのなら、あまり笑うものではない。がそう頻繁に笑うから加納の様な野郎が言い寄ってくるのだ。危機感が全くないのではないか。
土方は、自分がに振り回されているような気になってきた。
を守った結果、今こうして甘味処にいる。よそから見れば副長が平隊士と茶などを飲んでいるようなものであり、事実そうであり、これでは副長としての威厳も何もあったものではない。
どうものこととなるとマトモな判断ができず、後先考えずに行動してしまう。
「なあ、」
餅を頬張りながら、は顔を上げた。すでに一個目の餅を食べ終え、二個目に取り掛かっている。
いっそ、なぜ男の格好をしているのかを聞いてしまおうと思った。
しかし、やめる。
「何でしょう?」
問われて、土方は別のことを言うことにした。
「男がそんなにヘラヘラ笑うもんじゃねえ。そんな具合だから加納みたいな男色家に言い寄られるんだろうが」
は餅をごくん、と飲み込んだ。それから、目元を染めた。
「俺は、普段そんなに人前で笑顔など見せません。俺が笑うのは、土方さんの前だけです」
後半部分は早口になった。言い終わると湯飲みを手にして茶を飲み干し、そして息をついた。の顔は真っ赤だ。
意外なことを聞いた。土方は思わずをじっと見つめる。
「でも、その、衆道とかそんなんじゃありませんから!」
「……」
は真っ赤な顔をうつむけていた。
土方はそんなを今すぐ抱きすくめたい、という衝動にかられた。
しかし、できない。
なぜなら、は隊士。土方もを男として見なければならないのだ。抱きしめることも、その形良くぷっくりした唇を吸うことも、押し倒すことも辛抱しなければいけない。
土方はふとの口元に目をとめた。
それに手を伸ばす。
「土方先生?」
驚いているに構わず素早くその口元に指をつけ、引っ込めた。
「口に餡がついていたぞ」
そうつぶやいて、土方は指についた餡をなめた。
これくらいが限度か。
ここからの帰りはと二人だ。屯所に帰り着くまで理性が保てるかどうか。
それを思うと土方はとてつもなく自信がなくなってきた。
がらにもなく胸が高鳴ってきたので、土方は湯飲みの茶を一気に飲み干し、息をついた。
初の土方歳三夢で、はしゃぎ過ぎて長くなってしまいました。しかも話が本筋に向かうまでが長いという……。
男装ヒロインという設定が個人的に好きでして、今回もそれで書いてしまいました。
こんなんで良かったのでしょうか。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます!
冬里